前回の記事【虎二郎の雑学日記】増上寺編 ②の続き。
話を増上寺に戻す前に、しばし「徳川家」について語りたい。
NHKの大河ドラマで採り上げられる時代が示すように、
日本人の多くは戦国から織豊時代、そして徳川幕府の成立までの時代と幕末の時代を歴史として好む。
そして、傑物が生まれたから時代が変わったのか、それとも変わり行く時代が傑物を生むのか?
我々が生きる今という時代を未来の人たちはどう見るのだろう?
日本人が好む「時代」には徳川が絡む訳だが、
増上寺に繋がる話としてとても興味深い問題がある。
家康が幕府開祖として、その遺体を日光 東照宮(はじめ久能山 東照宮)に葬られているのは理解できるが、
なぜ二代 秀忠が増上寺なのに,三代 家光は日光輪王寺なのか?
これは、家光の遺言によるもので、家光は「寛永寺にて葬儀を執り行い、家康の眠る日光東照宮に添うように葬れ」と残したのである。
豪華絢爛という意味では、日光山 輪王寺は質素な佇まいではあるものの、
実は奈良時代に建立された由緒ある寺である。ちなみに、日光山 輪王寺も天台宗派。
その家光の子供である四代 家綱、五代 綱吉が寛永寺に眠ったところで、
芝の増上寺から「待った!」が掛かることから面白くなる。
実は、六代 家宣と七代 家継は親子であり、かつ本家筋から一度は外れた甲府藩主の子供達なのだ。
最近、「私はあなたと同じお墓には入りたくない」というご家庭も多いと聞く。
嘆かわしいと思うところもない訳ではないが、将軍だってこんな感じだった訳だ。(続く)
虎二郎
ツイート @aozora26242018年5月25日